会員 前田経一
医療の良心を守る市民の会のシンポジウムを、先日聞きに行きました。
参加させて頂いてこんなことを言うのも失礼な話ですが、内容に若干違和感を感じました。
医療者であれ法律家であれジャーナリストであれ、皆さん「事実・エビデンス・証拠」が大事と主張されていました。(油井さんだけは「患者視点のコメント」が大事だと、少し違うことを仰ってましたが。)
でも、本当に「事実・エビデンス・証拠」が大事なのでしょうか?
「事実・エビデンス・証拠」に基づいて行動すれば、上手く物事が進んで、皆が幸せになれるのでしょうか?
私にはそう思えません。
私が重要だと考えるのは、個々の「患者の物語(ストーリー)」です。
例えば、エビデンスに基づいた高度医療を大病院で受けるよりも、地域医療にて個々の患者に沿ったホスピタリティを受けたほうが幸せなのではないでしょうか?
客観事実報道よりも、個人の主観的なブログの方が、読んでいて楽しくないでしょうか?
傷心の医療事故被害者が、エビデンス(証拠)の争いである裁判に巻き込まれて、幸せになったのでしょうか?
私は下記のように整理しています。
エビデンス | 物語 |
---|---|
客観 | 主観 |
集団 | 個人 |
集約 | 分散 |
抽象 | 具体 |
法律 | 文学 |
マスコミ | ブログ |
大病院 | 診療所 |
治療 | ホスピタリティ |
医療被害者運動を突き詰めていけば、「医療」を解体し民主化する所まで行きつくのでは?と考えています。
同じような考えの人はいないのでしょうか。
修正: 2/3 13:30 「物語が分かる記事」→「ブログ」 「ミニコミ」→「ブログ」
(※当記事は、会員個人の見解であり、医療過誤原告の会の意見を代表するものではありません。)
私もシンポジウムに参加しました。まだ勉強不足なので、こういう考え方、側面もあるとの認識でした。シンポジウムの感想ではないのですが、前原様に共感するところはあります。患者のストーリー、どのような経過をたどったのか?病院で適切な診断、治療、しいていえば尊厳をもった扱いを受けていたかどうか?これが大切と思います。でも、今の裁判、調査・評価でもそうですか。結果重視です。どのような経過をたどったとしても、結果に反映されないと評価されたら、医療者側に不作為はなかった。で片付けられてしまうことがどんなに多いことでしょうか?ただ、事実は知りたいと思います。事実を知った上で、次にどのような展開があるのか?まだ模索中です。私がこのようなコメントを書くことは差し出がましいことと存じますが、医療のあり方について考えていたところでしたの、見当違いかもしれませんが、書かしていただきました。
コメントして頂いてありがとうございます。
>共感するところはあります
一部でも共感して頂ける所があったのであれば、記事を書いた甲斐がありました。
会員 前田経一さま、ぜひとも医者になって一人でも多くの患者様の物語を大事にしてあげるお医者様になってください。
個人的には、患者の物語を大事にしてあげられるのが可能なのは、家族や宗教だと存じます。
>患者の物語を大事にしてあげられるのが可能なのは、家族や宗教だと存じます。
同意です。
「医者さっさと退散しろ、バ~カ!」「もう医療は要らない、家族とスピリチュアル(笑)でいい。」
と書きそうになる気持ちを何度も抑えつつ、なんとかカッコ付きの「医療」という書き方に落ち着きました。
医療過誤原告の会は「医療」の解体を望んでいる! (うろうろドクター)
事実<<<<<<超えられない壁<<<<<<<患者の意見 (あかがま!)
言及して頂いてありがとうございます。勉強になります。
一部、わかりにくいことがあります。医療の民主化ってどんな意味なんでしょうか?今でさえ、まっとうな医者が少ないのに、これ以上裾野を広げて、さらに質の悪い医者が増えればいいという意味なんでしょうか?専門的な高度な医療なんて必要ない、ほどほどの医療であれば、人間的な扱いさえちゃんとしてくれれば、治らなくて死んでしまってもいいじゃないかということなんでしょうか?事実や証拠に基づく科学的な医療をすべて否定して、手かざしだけで治ると信じ込めば子供を見殺しにしても、それは、幸せなことだという意味ではないと信じたいですが。
ソフトウェア開発の世界では、ソフトウェアのユーザー(使用者)をいかにソフトウェアの開発プロセスに関与させるかが、長年の懸案になっています。
(ユーザーの依頼を受けてソフトウェアを開発して納品したら、全く使われなかったとか、クレームの嵐だったなんて話が、山のようにある。)
最近、建築の世界に学ぼうというという動きが盛んです。
特にi一部で注目されているのが、クリストファー・アレグザンダーという建築家です。
私はまだ勉強中ですが、アレグザンダーは建築へのアプローチを様々な「パターン」として記述し、パターン間のつながりをランゲージ(言語)として整備したらしい。
そして、そのランゲージを建築のクライアントにレクチャーし、クライアント自身に建築物を設計させたらしいのです。
医療の世界で、同じ様な考え方は出来ないのだろうか?既にあるのだろうか?というのが現在の興味です。(これなら「事実/物語」の二項対立は無意味なので。)
どなたか教えてください。
参考文献(まだ読んでないけど):
パターン、Wiki、XP 時を超えた創造の原則
パタン・ランゲージ
たぶん父は医療過誤で死んだ さんへ
>わかりにくいことがあります。医療の民主化ってどんな意味なんでしょうか?
私の頭が悪いので、「患者が主役!」「インフォームドコンセント大事!」「決めるのは患者!」と言えずに、難しく書いてるだけのような気がしてきました。
この激動のクラウド時代、数年の内に患者の健康データはクラウド上に置かれて、コンピュータがCGM(ユーザー生成)的に適切な治療法を指示することになるでしょう。
そうなったら、医師は完全にコモディティ化する(ブルーワーカー以外のなにものでもなくなる)のでは?
googleの医療への参入話ってどうなっていたっけ?
この辺の話を医師の方がどう考えているのか、非常に興味があります。
主観的な物語って具体的に何ですか?
9.のコメントは、おっしゃっていることと矛盾することになるのではないでしょうか?一人ひとりの患者に対して、適切な情報を提供し、個別的に治療方法を考えるというのが、おっしゃる意味の民主化であるとするなら、治療方法が画一的なものになりかねないコンピュータによる診断と治療方法の指示は、医者は不要で看護師だけで済むということにはなっても、コンピュータに判断させるプログラムを誰が組むかによっては、最初に否定された事実エビデンス証拠のみによる医療そのものになりはしませんか?気心の知れた医者を選ぶことが大事であるように読めたエントリーの文章とは相容れないように思えます。ついでに、看護師であっても、ホスピタリティが期待できるというわけではないと思います。多くの医療ミスは看護師のヒューマンエラーの一面があるではないですか。
>「医者さっさと退散しろ、バ~カ!」「もう医療は要らない、家族とスピリチュアル(笑)でいい。」
いやぁ、そうでしょうね。エビデンスはいらない、ナラティブだけでよいなら、
貴方にとって医者は不要なようですから、貴方は医者にかかわらなければよい。ネットで診断を検索して薬も個人輸入でもすればよい。ナラティブの処理はカウンセラーか、導師様をみつければよい。
医療者は昔からずっと、まず、自らを必要としている人を相手にしていたのです。今後も貴方に言われるまでもなく、必要とされるあり様に変わってゆくのですが、幸いなことに、貴方様の欲するようなあり方には変わってゆきそうも無いな、と、感じております。
連投 御免。
>そうなったら、医師は完全にコモディティ化する(ブルーワーカー以外のなにものでもなくなる)のでは?
>この辺の話を医師の方がどう考えているのか、非常に興味があります。
ホントに笑える。貴方は「ブルーカラー?が相応の医師風情」が今現在威張っているように 見 え る のが、気に入らないだけ。 医師がコモディ化したら、医療過誤がおきたとき「鬱憤が晴らしやすくなって」とっても快適。ですね。
何しろ、恨みは深いですからね。「下っ端じゃ、話にならん」のでシステムを組んだえらーい責任者(だれじゃぁ!でて来い!)に当り散らすのかしら。
それでシステムが よりよくなってゆくなら、とても素敵ですね。
>この辺の話を貴方様がどう考えているのか、非常に興味があります。
たぶん父は医療過誤で死んだ さんへ
「CGM(消費者生成メディア)」と書くべきところを、間違えてGCMと書いてしまいました。(訂正済み)
答えになっているか分かりませんが、私がイメージしたのは、世界中でインターネットを通してリアルタイムで個々人の検査データと治療法・治療結果が集約される、単一のデータベースシステムです。匿名で集約された統計データを基に、患者が自ら治療法を選択するシステムです。
でも考えてみれば、コンピュータを持ち出さなくても、インフォームドコンセントに基づいた患者による治療法の選択は、既に行われていることでしたね。
ネットによって「世界で単一の巨大データベース」が技術的に可能になったので、舞い上がって何か新しいことのように勘違いしただけでした。
>医療者は昔からずっと、まず、自らを必要としている人を相手にしていたのです。今後も貴方に言われるまでもなく、必要とされるあり様に変わってゆくのです
なるほど。
必要とされることに自信を持っていて、カッコいいなあ。
自分も、必要とされる人間になりたいものです。
>幸いなことに、貴方様の欲するようなあり方には変わってゆきそうも無いな、と、感じております。
私が望んでいるかはともかく、ネットによって全てのサービスが「再定義」されようとしている実感はあります。
「本質は変わらない」と受け取りました。心強いです。
>何しろ、恨みは深いですからね。
シンポで感じた違和感を表現しようと思って、意図的に二項対立を作りました。自業自得ですが、そのように感じさせてしまったのは(自分に文才がない証拠で)残念です。
>「医者さっさと退散しろ、バ~カ!」「もう医療は要らない、家族とスピリチュアル(笑)でいい。」
意識的に作り上げた二項対立の図式上で、上記のように極論を書くと主張が分かりやすくなるので書きたくなります。当然そう思っていないし一般論として通用する話でもないので書かなかった、と念のため補足しておきます。
トラックバック先から来て他の記事を含め記事を拝見させていただきました。
この記事は自分の意見を他人はどう評価するのか?という目的のエントリーですが、それは前田さんお言葉、特に「物語」という語を受け手がどう解釈するかによってかなり変わるのではないかと思いました。
私個人としては「私が重要だと考えるのは、個々の「患者の物語(ストーリー)」です。」の箇所については「合理性・論理性ではわりきれない人間の感情・思い・情緒を社会の行動のものさしの一つにする」と解釈すれば賛同できる考えだと思いました。また報道については、楽しいかもしれませんが、その性質上時には世間に予想外の影響を与えてしまうということもあるだろうし、またそういう報道を嫌う人も多いと思うのでなんとも評価しがたいとおもいました。「下記のように・・・・」の箇所については、少なくともこれを見る限りではただの二項対立・二元論的な考えなので、その考えを現実の行動に適用していった時にその枠組みに含まれない「誰か」を自分の意図しない所ではじいてしまう可能性があります。特に医療(広い意味での)は人なら誰でも必要とするものですので、正直疑問です。
ただこれらは結局は受け手の解釈問題という点に陥るということも指摘しておきます。私も報道については評価しがたいといいましたが、その報道という単語が「『数量的』にそういう報道を今以上に増やそうよ」ぐらいの意図ならそれはそれで理屈としてありうるのかもしれません。そういう意味では文中の「単語」の意味を文章内ではっきり定義したほうがいいのではと思いました。
例えば「医療被害者運動を突き詰めていけば、「医療」を解体し民主化する所まで行きつくのでは」の箇所は医療の2文字をどう解釈するかによって前田さんは既存の価値や障害の打破を創造する実に革新的な人間にも、(もちろんよくない意味で)ヤバイ人に受け手の意識の中では変化するだろうと思います。この記事は意見についてどう思いますかというのが目的なので、その意味ではもう少し厳密な書き方をした方がよかったのかもしれないとは思いました。
スレタイから外れますが、参加したひとりとしてこの場を借りて感想を・・・
(会場でQ&Aの機会があれば聴衆から色々意見や質問が出たでしょうが、残念ながら
全くの一方通行だったので)
席上「医療は高度で特殊な領域だから警察介入は馴染まない」という主旨の発言が医療関係者から出た。
彼は更に「検事が一生懸命、医療の勉強をするのは酷で可哀そうだ。だから事故究明は医療関係者に
任せるべきだ。」とも言っていたが、ここに何か医療従事者の大きな思い込みがあるように私は思う。
別に医療だけが高度で専門性が高いわけではない。ことさら特殊な世界でもない。
一方、各種の事件事故を扱う検事はその事件について勉強をするのは極当たり前であって、
司法や医療の世界に限らず「プロの仕事」とはそういうものである。
常に地道な勉強が求められ、そこには可哀そうも何もなければ、医療事故だけが特殊でもない。
鉄道事故や航空機事故だって警察や検察が関わる。検事はその事故に関わる技術的考察にも
勉強と時間を費やす。それを見て「検事は可哀そうだ」と言ってしまっては話にならない。
「医療事故にも事故調査委員会を」という発想は分からないではないが、
どうも主催者は
その発想以外、考えられない状態にあるように見えてならない。
医療被害者の裁判費用負担が大きすぎるという観点で事故調設立を望むのは理解できるが、
医療事故は専門性が高い(実は多くの事故は単純ミスだと思うけど)から司法介入は不適と考えるなら、
海難審判や知的財産高等裁判所などが何故存在するのか、ちょっと一休みして考えてみても
良さそうに思う。
法の元では誰もが平等であって、医療だけが免れられるわけではないと思うのだが・・・。
医療従事者が取調べに関わる負担、起訴された時の社会的負担など大変なことは分かるが、
これは鉄道事故であれ、航空事故であれ、欠陥製品で犠牲者が出た場合の製造物責任を
問われる被疑者などにとっても負担は同じで有ることを心の隅においておくべきではないかと。
それだけ犠牲者を伴う事件事故は厳しい。
N生さま
>法の元では誰もが平等であって、医療だけが免れられるわけではないと思うのだが・・・。
なら法を医療や鉄道事故、航空事故に合わせたら?
なぜ医療を鉄道事故に合わせるのか?
鉄道事故を医療事故に合わせるのではだめなのか?
という話ではないのかと思うのですがどうでしょう。
鉄道、航空と医療と決定的に違う事が医療にはあり(警察や消防、レスキュー等もある)、それは専門性ではないでしょう
>「下記のように・・・・」の箇所については、少なくともこれを見る限りではただの二項対立・二元論的な考えなので、その考えを現実の行動に適用していった時にその枠組みに含まれない「誰か」を自分の意図しない所ではじいてしまう可能性があります。
この記事の前提条件であるシンポの内容を考慮すると、二項対立を敢えて持ち出だして問題提起をすることが有効に思えたのです。
そう受け止められていない以上、言い訳にしかなりませんが。
>参加したひとりとしてこの場を借りて感想を・・・
(会場でQ&Aの機会があれば聴衆から色々意見や質問が出たでしょうが、残念ながら全くの一方通行だったので)
私も会場で「一方通行」な感じを強く抱いて、イライラしていました。
せっかく油井さんが「患者視点」という対立を持ち込んだのに、会場はスルーでした。
会場でディベートしないなら、ここで仕掛けるぞ!と意気込んで書きましたが、他人からどう見られるか考えない奴は馬鹿だと書かれ、落ち込んでいます。
>法の元では誰もが平等であって、医療だけが免れられるわけではないと思うのだが・・・。
医療のニーズは特別に高いので、特別な待遇(=医療のみ過失の刑事免責)も正当化されるという考えなのかもしれません。
医療事故調設立を求める立場も、医療を特別視するという点では同じ立場ですね。
匿名さん、
失礼ながらコメントの意味がいま一つ掴めませんが、少し触れてみます。
(尚、私は司法の専門家では有りません。悪しからず。)
交通事故という点では海難審判も航空機事故、鉄道事故も同じであり、
一度に大量の死傷者を出すという点も似ています。
しかし、海難には専門の裁判制度があるのに対して航空機、鉄道には
そういった専門の制度はなく、事故原因は専門調査委員会なるものを
設置する(常に設置されるとは限りませんが)と同時に、刑事、民事は
一般の裁判制度で審判を受けますね。
その違いが何なのか良く分かりませんが、一つは発生頻度の違いで
鉄道や航空機専門の裁判所を設けても日頃の業務は平準化されませんので
海難事故の様にはいかないのかな、と勝手に思っています。
それじゃ、発生件数の一番多い一般の交通事故(陸上)には専門の裁判
精度が無いのは何故?と言われるかもしれませんが、その理由は私にも
良く分かりません。
しかし、海難、航空機、鉄道、一般の交通事故は専門性が高い、低いに
関わらず、司直の手を逃れて済まされる制度にはなっていません。
医療事故だけが司法から逃れられるという事には行かないのでは?という
のが、私の言う「法は人のもとに平等」という意味です。
話が少し前後しますが、専門性が高いという点では海難審判に限らず、
知的財産も同じでしょう。
医療事故は専門性が高いという事ならば(発生頻度も決して低くないので)
海難審判、知的財産高裁のような裁判制度を考える道もあるのではないかと
思うわけです。
それを「事故調を設けるから司直は手を引け」式で押し切るのは今の日本の
法制度から言って到底無理な議論ではないかと思うわけです。
答えになったかどうか分かりませんが、以上です。
>海難審判、知的財産高裁のような裁判制度を考える道もあるのではないかと思うわけです。
裁判所は、地裁の中に医療集中部を設けて、専門性の問題に対処しようとしていますね。
>「事故調を設けるから司直は手を引け」式で押し切るのは今の日本の法制度から言って到底無理な議論ではないかと思うわけです。
私も専門ではありませんが、民事は和解すればいいし、刑罰は、他の手段で解決できない場合の「最後の(法益保護の)手段」のハズなので、事故調で解決できれば、司法が手を引くのは問題ない気がします。
だたなんら問題解決されていない現状で、医療は他のサービスとは違う特権的なサービスなので、医師は特権的に免責されなければならないなんて主張を見ると、同意しかねます。
共有可能な形で「語り」をデータベースに蓄積する試みはすでに始められています。
http://www.dipex-j.org/
ただ、
ナマの語りの効能は、
プライベート(非公開前提)だからこそ踏み込める領域がある、という事実と、
聞き手が語り手の自分を待っていてくれることが語り手を力づける、という事実の
2点が キモ(肝)だと思っています。
公開前提のデータベース化だけでは限界がありますでしょう。つぎのステップは自動応答AI(バーチャルカウンセラー)ですね。
医師のありようとは あんまり関係ないような、、、
さて、
15>必要とされることに自信を持っていて、カッコいいなあ。
15>自分も、必要とされる人間になりたいものです。
とのご評価を頂きましたが、
「かっこよさにあこがれ、必要とされたいという意識がありさえすれば プロが勤まる」と思っていらっしゃるような浅薄な方だな
と、失礼にも 貴方様を 誤解してしまいそうでしたよ。
「医師などというものは かっこよさ と 自分が必要とされているという思いこみ さえあれば、十分勤まるような代物である」と貴方様がお考えであること、失念いたしおりました。
15>「本質は変わらない」と受け取りました。心強いです。
貴方様の本質もお変わりないようで、また、目論見どおり、釣りとして、それなりの感情を効果的に誘発している点につきまして、欣快至極でございます。
論理的な議論を進めようとしている方々には
荒らし になってしまっていて申し訳ないです。
12、13、23です。
問題は感情なので、
ご本人にその自覚が無い状況では、
論理をすりわせようという議論は
問題解決には殆ど無力だと私はおもう。
22
>私も専門ではありませんが、民事は和解すればいいし、刑罰は、他の手段で解決できない場合の「最後の(法益保護の)手段」のハズなので、事故調で解決できれば、司法が手を引くのは問題ない気がします。
それでよいではありませんか。 で、すむわけはずない。
>だたなんら問題解決されていない 現状で
>医療は他のサービスとは違う 特 権 的 なサービスなので、
>医師は特権的に免責されなければならないなんて主張を見ると、
>同意しかねます。
「高度に専門的」を「特権的」に自動的に置き換えてしま(善し悪し、当否は別として)っている自覚すら無い人が作ろうとする事故調には、おっかなくて、
>同意しかねます。
被害患者としてあなたには真っ当な強い感情があった、
当事者の間では処理し切れなくて
他者にぶつける道具として使い、それなりに有効だったから
わたしゃ、貴方のその感情を引き起した当事者じゃないんだが、、
という別の医者に対しても、使い続ける。
貴方の感情が当事者個人に向くのは自然ななことだが、
それとて、決着つけられずに垂れ流し続けられると
第三者的には迷惑な話だ。
自分の気に食わない者はすべて、何か理由をつけて当事者に仕立ててしまうのだから、かなわない。
そんなことはしていない、と否定なさいますが 結局くりかえして
医者なんか嫌いだ、いらない、という印象がもっとも強く残りますから
それが 現時点で主様にとってもっとも重大な課題なのだろう。
そうか、嫌われてるんだ。
自分じゃどうしようもない感情ぶつけられて
いろいろ、それなりに対処しているところですね。
医者をいじめずには居られない人たちを よく知って、
そういう人たちからは いろんな意味で離れてくらすとか。
>>「事故調を設けるから司直は手を引け」式で押し切るのは今の日本の法制度から言って到底無理な議論ではないかと思うわけです。
>私も専門ではありませんが、民事は和解すればいいし、刑罰は、他の手段で解決できない場合の「最後の(法益保護の)手段」のハズなので、事故調で解決できれば、司法が手を引くのは問題ない気がします。
刑事と民事は明確に区別されるべきですね。
民事は、事故調の結果を以って賠償金額なども含め双方が(弁護士などを
介し)納得出来ればそれで良いわけですが、例えば事故調の結論が
どちらかに偏った?が為に一方が訴訟に持ち込んだとしましょう。
その時、裁判所が事故調が出した結論をいわば一審に値する(行政上)と
して蔑にされる?ことの無いよう考えなければならないと思うわけです。
公正取引や知的財産などの訴訟も似たようなものではないかと思う
のですが、事故調を諮問機関として見るのか、行政上の一審に似た扱いに
するのかなど運用上の議論が医療事故調では未だ充分議論が為されて
いないのではないかと気になるわけです。
(だからシンポなどで医療関係者が医療事故を司法から切り離すべきと
言った短絡的な話が出てくるのではないかと・・・)
一方の刑事ですが、事故調の結果は尊重するでしょうけれど、事故調が
量刑を決められるわけでもないし、当事者が告訴したら事故調の結論が
なんであれ裁判所は審理しなければならないでしょう。
そういう意味で、医療事故だけは司直の手から離そうというのは憲法上
からも到底無理と考えまてみるわけです。
失礼ながら本件はこの辺で終わりにさせてください。
素人(私)の限界です。これにて退場させて頂きます。
>事故調を諮問機関として見るのか、行政上の一審に似た扱いにするのかなど運用上の議論が医療事故調では未だ充分議論が為されていないのではないかと気になるわけです。
前厚労大臣の時には盛んに議論されていたのですが、今はそのような具体的で用語の定義に厳密な議論をする状況になってない、ということだと思います。
N生さんのご意見は、その通りだと感じています。
>共有可能な形で「語り」をデータベースに蓄積する試みはすでに始められています。
参考になります。
>「医師などというものは かっこよさ と 自分が必要とされているという思いこみ さえあれば、十分勤まるような代物である」と貴方様がお考えであること、失念いたしおりました。
皮肉で書いたと受け取られましたか?
そのつもりは全くなかったのですが。。
また誤解されるかもしれませんが、
他人に必要とされるには本人の努力が必要だろうから、
カッコイイ生き方だと思っています。
>貴方様の本質もお変わりないようで、
人格の話?ではなく「サービスの本質は変わらない」と書いたつもりでした。
やはり、テキストでのコミュニケーションって無理がありますね。
>「高度に専門的」を「特権的」に自動的に置き換えてしま(善し悪し、当否は別として)っている自覚すら無い
具体的にどこで「高度に専門的」を「特権的」に置き換えていますか?
自覚がない私にご教授ください。
>当事者の間では処理し切れなくて他者にぶつける道具として使い、それなりに有効だったからわたしゃ、貴方のその感情を引き起した当事者じゃないんだが、という別の医者に対しても、使い続ける。
具体的にどこで、当事者間でしか通用しない感情を、私は第三者に対してぶつけていますか?
「きっと、こう思っているハズだ」「いや違う、心の奥ではこう思っているぞ!」と言った類の印象論で他人を評価する行為は、不毛では?
治療の甲斐なく、家族が死んだ、あるいは、自分の機能が失われてしまったとしても、家族あるいは本人が納得できるものであれば、裁判になることはないでしょう。という意図で前田さんはこのエントリーを書いたのではないかと思いますがいかがでしょうか?
そして医師の方々の反発は、死亡や機能障害が、怪我や病気の必然の結果であっても、裁判をおこされたり、警察に逮捕されたりしてはたまらない。十分に説明したのに、納得できないで済まされてしまってはたまらないという思い、あるいは不信感からではないでしょうか?
私は、父のことで裁判を起こしてはいません。それは、最初に人は完全ではないのだからという思いがあったからです。しかし、時効が成立したあとに、単なるミスの結果ではないことがわかりました。どうしようもありません。刑事免責を条件に、必然としての死、あるいは機能の消失であるのかどうかを明らかにして、経済的保証をする制度があれば、苦労せずに済んだのにと残念に思っています。
>きっと、こう思っているハズだ」「いや違う、心の奥ではこう思っているぞ!」と言った類の印象論で他人を評価する行為は、不毛では?
すべて、感情的な医者個人の 印象論=物語で結構です。
それをもって私は貴方を評価していますか?
その評価は、まったく不毛でしょう。否定しません。
物語は、
公には 貴方や私の価値を規定することがない、
ということは、了解済みのはず。さもなければ、
個人的に背負いきれない価値を毀損をするかもしれない物語を
表に出すことなど、怖くて 私にはできはしません。
闘病記(治癒過程)は
物語自身がポジティブな要素を内包しているから
データベース化も抵抗が少ない。
事故事例の物語がデータベース化できれば
大きな予防効果を持つだろうと私も思いますし、
現実にそういう試みもある。 けれど、
現実にネガティブなことが既におきてしまっているのですから、
「おきてしまったことに対する罰」がリンクされていたら
物語が語られるでしょうか?
事故調を本当に「医療者の物語」を語らせる場にしたいのなら、
出てきた物語は物語である、と、了解して
公の価値判断である司法から完全に切り離しておく必要があります。
捜査と切り離せないのなら、黙秘権を認めるのが筋。
医療の社会的価値が高いから特例とする、云々の議論は
的外れではありませんか。
物語の有効性に注目なさるのなら、
聞き出し方と効能の限界も知って頂きたいものです。
>私は貴方を評価していますか?
「評価してる」と書いたのは、私の間違いでした。失礼しました。
>物語は、公には貴方や私の価値を規定することがない、ということは、了解済みのはず。
はい、理解しているつもりです。
>事故調を本当に「医療者の物語」を語らせる場にしたいのなら、
事故調に「医療者の物語」って必要なんですか?
事故調ではピアレビューを行って、厳格なエビデンスを基に対象の医療行為に介入するしかないのでは?
事故調を医療者のカウンセリング機関にするという発想はなかったです。
それは院内のカウンセラーなりメンターなりの役割に思えます。
>医療の社会的価値が高いから特例とする、云々の議論は的外れではありませんか。
これは別のコンテキストの話なので、ご指摘のとおりです。
たぶん父は医療過誤で死んだ さんへ
私の意図を酌んで頂いてありがとうございます。
お父様の件お悔やみ申し上げます。
>事故調に「医療者の物語」って必要なんですか?
私は必要だと思います。医療警察にならないためのキモです。
医療事故の「ケース」も 成功した治療の「ケース」と同様、
裁判で明らかにするようなエビデンスだけで描出しきれるモノではなく、
被害者の感情も納得できるかもしれない問題のキモは、
これこれのエビデンスではなくて、
むしろ、ケースの物語の中にあることが多い
と思っていますから。
>事故調を医療者のカウンセリング機関にするという発想はない。
そうでしょうね。損していると思いますよ。
そもそも当事者が事故原因を自覚できたら、
ふつう、避ける(避けていた)だろうに。
物語は当事者が気づいていない問題も引っ張り出すことがあるので、
キュアやケアだけでなく教育にもカウンセリングが使われる。
有効な語りを引き出すために必要なことだから
カウンセラーやメンターも守秘義務を負うのです。
事故調での聞き取りカウンセリングで当事者がキュアされたり、
教育されたりして、その後、医療事故が減って、
何か不都合がありましょうか。
>事故調ではピアレビューを行って、厳格なエビデンスを基に対象の医療行為に介入するしかないのでは?
物語性に重きを置かない ピアレビュー は、
厳格なエビデンス集め=従来の取調べ とどう違うのでしょうか?
ちがいがないなら警察が二つになるだけ。
事故調で ま と も なピアレビューをやったとして、漏らした物語を、
社会的な価値判断の場である裁判のエビデンスに流用するのは
絶対に勘弁してくれ、ですよ。
それが「事故調で言ったことの免責」の意味であって、
事故調でコンフェスした事案は 即、外でも免責、という意味では無い、
と理解してます。(個人的見解)
犯罪を立件したいなら、警察検察は事故調を当てにしないで、
自前でエビデンスを集めればよい、集めるしかない。と思います。
日本人はこういうけじめがルーズだから、結局 物語をエビデンスに
流用するだろうなという危惧が払拭しきれないんです。(大勢)
で、みんなしり込み。
>厳格なエビデンスを基に対象の医療行為に介入するし か な い
何のためにどのような介入をするのか、もういちど教えていただけますか?
さらなる証拠集め? 罰?、それとも矯正ですか?
もしそれをやるなら、やっぱり
事故調=医療警察です。矯正までやるなら医療特高警察だな。
被害者の気持ちを満足させるためには医者を罰するしかない、
と、空耳が聞こえて仕方が無いのですけれど。
>>医療の社会的価値が高いから特例とする、云々の議論は的外れではありませんか。
>これは別のコンテキストの話なので、ご指摘のとおりです。
また別のコンテキストでは的外れでないから再燃するのですね。
私はかなり根本的、本質的に的外れとおもっています。
エビデンス<物語 は、いってみただけ、でしたか。
被害患者の物語>エビデンス>医療者の物語
ということですか。(↑ 私はあかがま先生ではありません)
連投失礼 勝手にまとめてみます。
ある体験を共有した医者と患者はそれぞれコンテキストの違うナラティブを吐き出しますけれど、
医療事故の真相を明らかにして予防に役立つのは、まさに当事者である医療者のナラティブであり、患者のナラティブやエビデンスよりもはるかに有効です。
医者と患者は相互にお互いのナラティブを共感をもって了解可能であり、それこそが被害患者さんが納得するために必要なことです。
(異なるけれど了解可能、ということがご理解いただけますか?)
おそらくエビデンスを介するよりもはるかに実り多いものになる、だろうということです。なぜなら、
>>医療の社会的価値が高いから特例とする、云々の議論は的外れではありませんか。
>これは別のコンテキストの話なので、ご指摘のとおりです。
また別のコンテキストでは的外れでないから再燃するのですね。
いささかうんざりしつつ再掲したのは、医者、患者のほかに、さらにもう一つ、社会的に罰を与えるかどうかを判断するための司法のコンテキストがあって、そのナラティブ(法律家の吐き出す文書)は医者患者双方とは異なるエビデンスを重視するということです。
自省や相互理解のために吐き出したナラティブを、恣意的に別のコンテクストに翻訳されてはかなわない、ということです。
ストーリー といわれると、脚本や筋書き といったイメージを貼り付けられますので、物語を ナラティブ と表現させてもらいました。
統合失調者も物語を語ります。妄想型など、特にそうです。
彼らの一人にこのサイトを見せたところ、前田氏に対して、「神である自分と、その配下である医者に対して失礼だ。だから、10万億円の賠償を払え」という物語を語られました。
前田さん、あなたは統合失調者を差別なさる方ではありませんよね。そして、この妄想型の患者さんのお話は、とても面白いと思いませんか?
前田さん、10万億円、この患者さんに支払って下さいよ。患者さんの語りが、とっても大事なんでしょう?エビデンスなどよりも物語の方が大事だと仰いましたよね?エビデンスよりも物語に基づいて、民事訴訟は戦われなければならんのだとしたら、まず隗より始めよ、そうではありませんか?
この妄想型統合失調者に対して、10万億円の金銭を支払って下さい。それが患者さんの語りだからですよ。
快薔薇の騎士さま
援護射撃?有難うございます、というべきでしょうね。
前田さんは、すでに
32
>>物語は、公には貴方や私の価値を規定することがない、ということは、了解済みのはず。
>はい、理解しているつもりです。
で、示されたように、
物語が語られたプライベートな空間を出たら、物語は社会的価値を規定する物では無くなる、物語を外の社会の価値に敷衍してはいけない、ということを 了承済みでいらっしゃる。
あともう数歩すすんで、「事故調と刑事罰とリンクさせたら事故調はやくたたずになる」とご理解頂きたい、と貧道は切望いたします。
患者さん自身のナラティブこそが患者さん自身のヒーリングあるいはキュアに必須である。しかし、患者のナラティブでは現代医療の技術を制御しきれない。だから医療者のナラティブがある。
社会の秩序を守るための司法のナラティブも別個にあるんです。
心の病の患者さんの物語も、共感が難しくとも了解可能なことがままあるでしょう。さりとて、患者さんの物語にそって治療をしたら、しょっちゅう、とんでもないことになるでしょうね。 だからしない。
精神鑑定なんてあからさまに医療者のナラティブじゃなく司法のナラティブです。責任能力なんて失礼千万ないいまわしだけれど、そういう言い回しで患者のナラティブと司法のナラティブとの摺りあわせを回避している。
ああ、いつも長くなる。前田さま、黒薔薇さま、ごめんなさい。
もうひとこと。
医療者のナラティブ満載 の 診療録は、「唯一自己固有のコンテキストしか理解できない(しようとしない)人」には、おいそれと開示できないよ、という医療者の心理、ご理解いただけますでしょうか。
快薔薇さま
お名前撃ち間違えました、大変失礼いたしました。
もうメンバーの方々は誰も読んではいらっしゃらないかもしれませんが、
削除もされていないようですので、
物語の力と限界をご存知の前田さんのお招き(釣り)で
与えていただいた機会ですから、
医療者のナラティブにもご理解をいただけるよう、
いま少し、
感情的医者 個人 のナラティブ
を続けさせていただきます。
快薔薇さんのご趣旨は、刑事だけでなく民事訴訟の判断根拠に物語を流用することも不当である、と読めますね。私もそう思っておりますから、このスレッドでも民事vs刑事の議論はスルーして、単に司法、と申しておりました。
司法は、刑事も民事も、これまで同様に機能なさいませ。
しかし、事故調の外で。
事故調の成果をご利用なさるのは結構ですが、
証拠集めのための草刈場として、入ってこられるのは迷惑です。
医療者の物語には、
ケースの問題点を何とか解決しようとして、見落としは無いか、判断に誤りは無いかと、逡巡、試行錯誤する過程がつづられているのです。
同じコンテキストを共有する者たちには極めて短時間で了解可能で、問題点を共有して衆知を結集することもできます。まさにそのためのものですから、みなおせば判断間違いなぞ、山のように出てくる。
そんな代物である診療録を、民事訴訟において価値判断のための証拠とされたら、こりゃ、だめでしょう。後出しじゃんけんで、毛を吹いて瑕を求められ、(人間とは結局最後には往生するものである、にもかかわらず)「亡くなった」という結果責任を問われる。
そんな司法のコンテキストで、医療者のナラティブに介入しないでくれ。
無過失責任保障制度ために相応の拠出をしてでも、司法が医療者のナラティブに介入するのを回避したほうが、結局国民のため。
被害患者の会を名乗る方々に申し上げたい。
あなた方のナラティブは、あなた方の立ち直りのために必須であり、真に力を発揮するためには社会的価値に一切縛られない形で自由に語られることが必要不可欠です。
「医者さっさと退散しろ、バ~カ!」「もう医療は要らない、家族とスピリチュアル(笑)でいい。」
被害患者の物語として十分に了解可能ですとも。
それが社会的に意味がある(二極対立の一極ですって?)かのように主張なさるから、怒りを買うのです。
このような物語は、現実の他者の価値や意味を一切規定しない、ということを、お忘れ頂きたくありません。
この会の御主張も被害者の物語として説得力がありますとも。
最後まで読んで下さった方にはお礼を申し上げます。
有難うございました。
前田様。
お願いですから、私がお医者さんにかかる機会を取り上げるようなことは、
止めてください。
お願いします。
「医療者の物語」って無理があるよ。
そんなものは要らないというか、現に存在しないものです。
医療に、エビデンス以外のものが存在する余地は無いです。
医療者は、エビデンスへの忠誠を、自らの義務として負う人のことです。
そうでなければ、医療者を名乗ってはいけない。
>医者と患者は相互にお互いのナラティブを共感をもって了解可能であり、それこそが被害患者さんが納得するために必要なことです。
これは医療ではなくて、民間療法か何かの話ですよね。
医者がいない世界で、個々人の「ナラティブを共感」を基にしたコミュニケーションが生まれるというのは理解できます。
>医療者の物語には、ケースの問題点を何とか解決しようとして、見落としは無いか、判断に誤りは無いかと、逡巡、試行錯誤する過程がつづられているのです。
プロであれば、仕事をどんなに細かく分割しても、個々の判断はエビデンスに基づくものです。それは検証可能だし、検証価値のあることです。
これは医療に限らず、他の仕事全てに共通する話ですよね。それが「イヤだ!」と仰る。特権的に聖域を守ると仰る。
プロの仕事をナメていませんか?
前田さん、
この程度の言説でプロが動くとでも思っているのであるとすれば、あなたこそプロの仕事をナメていると思いますがね。
あらら、そこへ戻りますか。
41>医療者は、エビデンスへの忠誠を、自らの義務として負う人のことです。
エビデンスにを重視するのは司法、警察のコンテキストを連想いたしますし、患者のQOLや命を追求することが医療者の義務だと思いますが、
忠誠って いったいなんですか? 遵守しないと罰ですか。
貴方の物語で定義されても説得力が無い。
42>これは医療に限らず、他の仕事全てに共通する話ですよね。それが「イヤだ!」と仰る。特権的に聖域を守ると仰る。
また、特権的聖域 と感情的に飛躍なさいますね。再三指摘しているが、自覚が無い。
医者のナラティブがエビデンスの検証をおろそかにしているですと?
医療者はカルテを開くたびにエビデンスによる検証を繰りかえして、しかして、決して確率論から逃れられないまま、次の行動への判断につなげている、
その過程がカルテにつづられておるんですがね。
エビデンスに基づけは、次の瞬間にすべきことが100%正確に決定できる、とでもお思いですか? 確率の高いことと、確率は低くても外れると危険性の高いこと、実施可能なことを勘案して対策してゆくのです。
先にも書いたが、やはり貴方のような考え方の人には
カルテは怖くて見せたくないな。
患者のナラティブを満足させるべく、エラーを探すだろうし、
それは必ず見つかる(見つかるまで厳しく見るだけだ)から。
こんな状況じゃ、カルテ開示の法的義務化なんて二重カルテの推奨みたいなもんだ。質の改善を伴わない仕事量が増えて、医療水準下がるでしょうね。法的義務化+二重カルテ禁止なら、医療水準はますます下がるでしょうね。
ほんとに振り出しに戻った感じです。
>>医者と患者は相互にお互いのナラティブを共感をもって了解可能であり、それこそが被害患者さんが納得するために必要なことです。
>これは医療ではなくて、民間療法か何かの話ですよね。
いいえ、民間療法の話ではなく
医療事故、トラブル、がおきたときの、落とし前のつけ方について、
話しているつもりでしたが?
医者と患者のナラティブのすり合わせは普段の医療には必要ない。時間的余裕さえあればやったほうが良いだろうが。
医者と患者の間では、患者さんの物語をできるだけ自由に活動させておく。そうしながら、医療者のナラティブは患者さんからは見えないところで活動している。専門用語を山のようにつかって。いちいち患者のナラティブと医療者のナラティブをすり合わせをしていたら、作業効率が落ちます。(それとも患者のコンテクストでカルテを記載せよとでもおっしゃる?)
カルテの開示は何のため?
患者さんの(社会的には他者の価値を規定できないはずの)物語を完結させるためですか? 結構です。物語を完結させて勝訴よりもおおきなものをえて、立ち直っていただきたい。
しかし物語に付随する()の条件を忘れて、「過誤のエビデンスを見つけたぞ」と言い張り、医療者の価値を規定するのに利用しないでくれ。
貴方ならやりかねない、という思いが、いっそう強くなりました。
入学試験にともなう内申書が封じられているのはなぜだと思いますか。
入試に失敗したとき、貴方なら内申書の開示を要求し、内申書の記載内容の根拠を求めて教員の指導記録の開示も要求すると思います(単なる個人的連想ですからご放念ください)
それと、どなたかも指摘してましたが、
前田さんは 民間療法 も なめてますね。
>これは医療ではなくて、民間療法か何かの話ですよね。
民間療法の施術者の方は、現代医学のコンテキストとは異なる(もちろん患者とは別の)コンテキストをお持ちですよ。
どの位の数の方がここを見ていらっしゃるのでしょうか。
前田さん以外に会員の方が見ていらっしゃらないのなら、
これ以上、このスレッドで私が申し上げることはございません。
感情的な医者 さん、
もうちょっと論理的に書こうよ。
「司法で医療紛争を解決することには問題がある。だから、司法の前に医者同士でピアレビューを行うことで、医療界が自律的に問題を解決してほしい。」
これが私の願いです。
>48 前田さん
「司法で医療紛争を解決することには問題がある。」
その通りだと思います。平均すれば原告側にかなり甘いと思います。
「だから、司法の前に医者同士でピアレビューを行うことで、医療界が自律的に問題を解決してほしい。」
医者同士のピアレビューは、患者さんの目の前に出ていないだけで、医療者の中ではずっと昔から行われていることですね。
ちょっとでも瑕疵がありそうだと、やたらと騒ぎ立てる患者側に問題がある場合も少なくないと思います。
説明を追加します。
「医療機関で事故が発生した場合に、ピアレビューで検証が行われ、ステークホルダーへの説明責任が果たされることを、国民は保証されるべきだ。」
と言っています。
峰村健司さんの周りで既に行われているのは素晴らしいことですが、そうではないところもあるので、問題にしています。
説明責任(アカウンタビリティ)の手続き保証を「政府」や「医療界」に対して求めているのです。
>説明責任(アカウンタビリティ)の手続き保証を「政府」や「医療界」に対して求めているのです。
大変耳障りの良い御主張で、総論賛成ではありますが
あなたのおっしゃる説明責任とはどのようなものですか。
どのような状態が説明責任が果たされた状態ですか?
私は医療過誤~事故被害者に対する医療者の説明責任とは、
検証可能な事実(エビデンス)のみの羅列よりも、
過誤に至ったナラティブを誠実に開示すること、と考えます。
(事実への言及も当然含まれます。)
被害患者さんが納得することが大きな目的なのですが、
私は、処罰感情を抱いている対象と折り合いをつけるには、
謝罪とともに
>「ナラティブを共感」を基にしたコミュニケーション
が必須である(而して十分条件ではない)と何度も体験しておりますゆえ。
あなたはこれを、医療者の逃げ口上として捉えていらっしゃる。
さらに貴方は医療はエビデンスの集積でしかない、
医療に物語など無い、と断じて、
>医者がいない世界で、個々人の「ナラティブを共感」を基にしたコミュニケーションが生まれるというのは理解できます。
>「医療者の物語」って無理があるよ。
>そんなものは要らないというか、現に存在しないものです。
>医療に、エビデンス以外のものが存在する余地は無いです。
>医療者は、エビデンスへの忠誠を、自らの義務として負う人のことです。
>プロであれば、仕事をどんなに細かく分割しても、個々の判断はエビデンスに基づくものです。
>それは検証可能だし、検証価値のあることです。
このようにおっしゃる。
なるほど、あなたは 医療とはそういうもの とお考えか。
では、あなたの考える説明責任とは、どのようなものか、
お示しいただきたい。
感情に敏感な私は次のような予断に陥っておりますので。
司法で認めたエビデンスですら被害患者を納得させられないことがある。納得させ得ないのは医療者が説明責任を果たしていないため、だそうだ。医療者みずからが十分説明できないのならしかたがない、と、納得できない被害患者がカルテを隅から隅まで切り刻んで都合の良い「エビデンス」を追求する姿が目に浮かぶ。医療者の明らかな瑕疵はいくらでも見つかるし、さもなければ、エビデンスをキチンと記載していなかった医療者は失格なので糾弾に値する。医療とはそういうものだという覚悟の無い医療者も、これまた糾弾に値する。
そのような「説明責任」を保障する制度は、真っ平です。
(偏見的妄想終了)現実におきていることでもありますが。
>もうちょっと論理的に書こうよ。
貴方の議論は散発的に感情にドライブされるが、無自覚である、
無自覚であるがゆえに貴方の論理は私に対して説得力を欠く。
そういう趣旨で書いておりますので、論理と「感情の記述」の交錯は必然です。 お互いに、書き手が感情にドライブされている状態が弁別できておれば十分でしょう。
>「司法で医療紛争を解決することには問題がある。だから、司法の前に医者同士でピアレビューを行うことで、医療界が自律的に問題を解決してほしい。」
通常、医療機関内で日常的に行っていることですが
事故調がこの本筋をはずさないで実現するのなら賛成です。
既述の理由から、司法へのデータの直接流用は望ましくないです。
さて、そこで
この「医者同士のピアレビューによって医療過誤・事故の問題を自律的に解決するための機関」は、被害患者への説明責任を果たすためナニをするのか、説明責任を具体的に定義する一法として、お示しいただけると幸いです。
たとえそれが不可抗力であったとしても事前の説明がなければ医師に損害賠償責任は発生する。
ホーテ寺へ行ったんですけど医療弁護士 やたらと諦めろとか 医療訴状は時間もかかって大変難しいとか否定的な事しか言わない信用して大丈夫か教えて欲しいんですけど
医療業界の陰謀を感じるんですけど。なんかいい方法があれば教えて下さい。
出血性脳梗塞で搬送されその後一般病棟へ、順調に回復急性期を過ぎその後、15日たった亜急性期、今度は突然脳出血を起こす。この間血圧降下剤を処方されなかった、血圧測定ももちろんされず。後片麻痺に
>なんかいい方法があれば教えて下さい。
禅
おのれをみつめなおしなさい。
平成22年3月1日 調律大淀病院事件民事訴訟 患者側全面敗訴
>明日の朝刊には関連した記事が掲載されるんじゃないかと思いますが、報道各社がどのような記事を出してくるかといったあたりにも注目しながら結果を待ちたいと思います。
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/519753/47696114
>>54
出血性梗塞でつか。 降圧薬でBP下げればまた梗塞するかも。
>血圧測定も もちろんされず。
測ってなかった証拠があれば、訴訟してみなよ。何ぼか取れるだろう。 血圧測ってれば片麻痺が回避できたんでしょうしねぇ。
>>52
前田さんの本音 別に、ステハンで書かなくてもわかってますって。
はいはい。
初診時に「不可抗力であったとしても事前の説明がなければ医師に損害賠償責任は発生すると思うかどうか」念書を戴いてから診察するかどうか決めましょうね。後出しじゃんけんは真っ平ごめんですので。
もう少し詳しく解説を願います。
不可抗力で医師の説明責任は問るか。たとえそれが不可抗力であったとしても事前に医師の説明がなければ損害賠償責任は発生する。
医療従事者のサイトに書いてありました。書いてある事は本当ですか。
私はあなたのおっしゃる 医療従事者 本人ではないし
そんなサイトを見たこともないので
ホントかどうかなんて、知りません。
あなたの好きなエビデンス、ソースと全文を引っ張ってきてから議論が始まります。
こんな風に。
2010年 3月1日 判決 聞き書き
http://symposium.b-r.under.jp/?eid=1328894
2. 事実認定の概要
高崎美香氏は(2006年)8月7日に入院し、8月8日午前0時に頭痛を訴え、こめかみを押さえるようにした。午前 0時14分に意識消失し、産科医が内科医とともに診察し、呼吸・血圧ともに問題がなかったことから心因性の失神と主に内科医が判断して経過観察を進言した。午前1時37分、美香氏は痙攣を発症し、午前1時50分に産科医は母体搬送を決めて奈良県立医大に搬送依頼を行った。午前3時49分に救急要請を行い、午前3時56分に救急車が大淀病院に到着した。美香氏は午前4時30分頃呼吸困難となり、挿管された。救急車は午前4時49分に国立循環器病センターに向けて大淀病院を出発し、5時47分に到着した。午前7時55分から美香氏に対して開頭血腫除去術と帝王切開術が施行され、午前8時4分に原告奏太氏が出生した。午前10時ごろに手術は終了したが、8月16日に死亡した。
3. 争点
(1) 美香氏の臨床経過
(2) 産科医の過失
(3) 過失と死亡の因果関係
(1)
美香氏は8月8日午前0時ごろ頭部右側の頭痛を訴えているが、その時点で出血が右脳に生じたと考えられる。午前0時14分に意識を消失しているが、この段階でかなりの量の出血が生じていたと考えられる。出血は中脳におよび、脳ヘルニアを来たした。1時37分に痙攣発作を起こしているが、これは除脳硬直であると考える。この段階で中脳から橋が両側性に障害されていたと考えられる。午前2時ごろには瞳孔は両側ともに散大し、対光反射は右で消失、左でわずかに認められた程度であった。このため、脳の右側は脳ヘルニアが完成し、左側も完成してはいないもののヘルニアの状態であったと考えられる。その後、過呼吸状態となり(ページが変わってメモがこのあたり欠損しています)、脳ヘルニアが完全に完成した。午前2時の段階で脳ヘルニアが生じていたことからも、病態は急激であり、午前0時から数十分以内に手術しないと救命できなかったものと考えられる。
(2)
美香氏は午前0時ごろ脳出血を発症した。午前0時14分の段階でCT検査を施行していれば何らかの所見が認められた確率は高いと思われる。しかしCT検査は患者への負担も生じる検査であるため、何らかの疾患を疑った段階で施行するものである。美香氏の場合、心因性の失神と考えられていて何らかの疾患を疑う状態ではなかったことから、CT検査を施行せず経過観察としたことが不適切とはいえない。しかし、心因性の失神であれば普通30分以内に意識が回復することから、1時37分に痙攣が起こった段階で脳に異常が生じている可能性を疑うべきであったと考えられる。
問題は、午前0時14分の段階でCT検査を施行していれば救命できたのかということである。CT検査を午前2時の段階で行ったほうがよかったのは確かだが、午前1時50分の段階で産科医は既に奈良県立医大に対して搬送依頼を行っているので不適切とはいえない。搬送依頼をした午前1時50分から、実際に搬送先が決定するまで実際に3時間かかっている。CT検査を施行するのは40分~50分でできるため、搬送先を待つ間にCT検査を施行できたとする考えは妥当である。しかし、産科医の経験では、奈良県の母体搬送システムを利用して搬送先が決定するまでこれまで1時間程度であったため、CT検査よりも母体搬送を優先させたことは不適切とはいえない。また、CT検査を施行することによるリスクを考えても搬送を優先したのは誤りとはいえない。
また、原告らの訴えによるとCT検査を施行していたら午前1時ごろには脳出血が判明し、産婦人科と比較して医療機関数の多い脳神経外科に搬送できたはずとのことであるが、本症例は午前0時の段階で既に分娩進行中なので、脳神経外科のみならず産婦人科を併設した病院でないと受け入れができなかったことは明らかである。
(3)
大淀病院で最善が尽くされていた場合に美香氏を救命できていたかどうかであるが、午前0時14分の段階で脳出血が起こっており、心因性の失神の場合には30分以上意識を失っていることはないため30分たったときに、つまり0時50分の段階で搬送依頼を行っていたと仮定する。この段階で、たまたま奈良県立医大で受け入れ可能だったと仮定しても、搬送されるのは1時半ごろが最速となる。脳神経外科医、産婦人科医、小児科医、麻酔科医が最高の形で揃っていた国立循環器病センターでも(搬送されてから)手術の準備に2時間かかっているため、奈良県立医大でも同程度の時間を手術開始までに要したと考えられる。このため奈良県立医大で手術を開始できる時間は最速でも3時30分頃となる。しかし、そのころに手術していても脳ヘルニアが完成していたため救命出来なかったといえる。
4. 結論?
以上より、原告の訴えを棄却するものとする。
人間は 不可抗力で死にます。 説明した。
みっちゃん 2010/02/24 12:15 慢性病の治療方針の説明ならともかく、急性くも膜下出血の治療方針(即生命にかかわるから重要だけど、場合により本人意識不明な時は理解できる余地無し)の説明責任や、心筋梗塞で苦しみまくっている最中の、一分をあらそう心カテの説明責任をも含んだ立法化は難しそうだなと思ってみたりしています。
NATOROM先生のところのコメントです。 全くぴったりの文章ですので、引用させていただきました。 この場での文責は引用者にあります。
http://hp.xxxxxxx.jp/slr
紛争.訴訟防止
でくぐって見て下さい。
紛争 訴訟予防論
説明義務違反の事かい
回答ありがとうございます。