このたびの震災被害で被災された方に心よりお見舞い申し上げます。
●さて,震災後の影響を考慮し,
3月27日のチラシ配布・署名活動を中止いたしましたが、活動を再開いたしました。
<第26弾>4月24日(日)16:00~17:00
場所 北千住駅 北口2階デッキの広場で
西日を浴びて、12名で行ないました。
足立区の皆さん、ご協力いただきありがとうございました。
☆次回は、5月21日(土)16-17 JR大塚駅北口で行います。
宮脇(携帯090-6016-8423)までお願いします。
「司法も責任」 福島第二控訴 元原告
「原発は安全か」。周辺住民たちは四十年来、法廷に問い続けたが、多くの裁判所は「専門的、技術的評価は司法判断になじまない」と踏み込んだ議論を避けてきた。最悪の事故が現実化したいま、「不十分な安全対策を容認してきた司法にも責任がある」との声も上がると。(報道より)
この思いは、医療過誤の原告を生きてしまった私達の思いと重なります。同じです。専門的技術的評価の為の証拠、カルテは被告側が管理し、専断的に解釈、記録する環境下で、医療過誤訴訟はすすめられます。改竄は日常的。しかしこの構造に疑問を呈しても、変える事はできなかった。
証拠無視、原告への人格誹謗、カルテ改ざん、騙し解釈、ありとあらゆる不正がまかり通る司法だった。司法ほど、透明性の無い世界はない。大切な判決の直前、尋問した裁判官が突然移動してしまう。それを織り込み済みの原告弁護士達である。
民間の会社で、顧客相手に重要局面で会社の一方的都合でキーマンが移動する事が続いたら、その会社は信用失墜、事業継続は困難、淘汰の憂き目だろうに、裁判所はいつも、いつも。それを織り込んで進んでいる世界。
病院も消毒薬の臭いのする、市民社会からは隔絶した社会で、白い巨塔などと言われたが、まだずっと良い。司法はそれ以上だった。結果、医療過誤裁判は屍累々である。その上、ネット上では、原告は晒しものにされる。このホームページの書き込みを読んでください。
私達は、家族の不慮の死に遭遇し、大切な家族の死の経過に納得できなかった。大切な家族の死にいたる苦しみ、疑問だらけで、生き続ける事が苦しかった。それで多くのお金を投げ出し、最後の砦と思って裁判に及んだ。結果がこれです。これが日本の医療、司法の現実です。この会のホームページの書き込み、これらはその歴史的記録ではないでしょうか?
私達は、かくも荒れ果てた荒野に、さまよい歩き、敗れた。みんな原告の会から遠ざかり、訴訟を思い出す事が苦しい。これが日本の現実。弁護士はそれが不満のようだ。今日本中、津々浦々、買収されて取り繕っていた事、嘘が通っていた事が、原発問題で明るみに出てくる。
医療過誤訴訟の敗訴率と、福島原発は同根だったと思う。これを知って、私たちは変わるのだろうか、否か。
6月16日のコメントをお読み下さい。